RK

上手になるために(心理面)

<上手であるとは>

 ある技術が「上手である」とはどういうことなのでしょうか。以下のようなことを指していると思います。

・その技術の生産物(あるいはその技術そのもの)が他人より高いレベルにある

・生産物を得るための時間が他人より短い(=生産性が高い)※ここではまとめません

 

<評価とは比較>

 前節で「他人より=他人と比較して」と書きました。上手であることは相対的(かつ多角的)なものです。絶対的なものとも考えたのですが、評価をする尺度がなく結局は人の「感覚」に依存するため、相対的なものと考えます。

 他人から受ける評価とは、その他人がどの程度の技術を持っている人と比較しているかによって異なります。また、注意していただきたいのは評価をする人が技術を持っている必要はありません

・上手である:低レベルの技術を持っている人と比較し、ある程度の技術を持っている

・上手ではない:高レベルの技術を持っている人と比較して、低い技術である

 つまり、複数の人から「上手である」と「上手ではない」と評価された場合、その人たちが「どの程度の技術を持っている人と比較しているか」が重要です。

 誰かに「上手ではない」と言われると「自分はダメだ」と考える方もいらっしゃるでしょうが、比較対象を明示していなければ相手は「高いレベルの人」と比較しているかもしれません。そうであれば大多数の人は「上手ではない」となってしまいますので、気にすることはありません。

 

<批判は耳を傾ける>

 ただし「上手ではない」と言われても、それが「自分に役立つ正当な批判」である場合は耳を傾けましょう。批判は非難と異なり「こうしたほうが、もっと良くなるのではないか」という三者からの貴重な意見です。批判の全てを真に受ける必要はありません。自分の技術レベルを上げるのに役立つ部分だけ取り入れれば良いのです。

 

<自己評価>

 これは自己評価でも同じです。比較する他人を「どのレベルの人とするか」により、自己評価は異なります。その技術を持たない(またはほとんど持たない)人たちと比較すれば自己評価は高くなりますし、その技術に長けている人たちと比較すれば自己評価は低くなります。

 この「自己評価が低くなる」というのが、上手になるための関門になります。ここで心が折れてしまう方がいるのではないでしょうか。さらに悪いことに他人との比較ではなく、自分の理想像という「存在しない他人」と比較して自己評価が低くなる場合もあります。

 これは単に山の上を見て「高いところに人がいるな」と眺めているようなものです。上を見ているのですから自分が低いところにいるのは当たり前です。現在進行で登っている方が悩むことではありません。高いところでも、自分が現在いるところでも、足元を見れば同じ坂になっており、道がつながっているのであれば気にすることはありません。

 

<上手になるための目的と手段>

 以下のような目的と手段で日々努力している方がいると思います。

目的:生産物の質の向上

手段:技術を磨く

 例として「上手な絵を描くために絵の練習をしている」という状況を考えます。すると、目的と手段は以下のようになります。

目的:上手な絵を描く

手段:絵の練習をする

 さて、前に「目的と手段」で書きましたが、目的は次の目的の手段となります。この場合ですと「上手に絵が描けるようになったら、次に何をしたいか」です。

 

<上手になることを目的としない>

 絵の練習を始める前、絵を描くことにより他人に何かを伝えたかったりしなかったでしょうか。「自分の好きなものはこれだ!分かれ!伝われ!」と考えていませんでしたか。絵が上手になることは目的ではなく、何かを表現するための手段ではありませんでしたか。

 私は「萌え絵」と言われるジャンルが好きです。そのため、そのような絵を見ることが多く、私が上手だなと思う方には「こだわり」が見て取れます。

 偏りますが、例えば「眼鏡最高」「メイド服こそ至高」「動物の耳を模した耳を生やした女の子が可愛い」「花と女の子の組み合わせ」「きれいな背景とそこにたたずむ女の子」「ある作品のキャラクターが可愛い。あなたを取り込んで見せる!」などです。

 私がその技術を持っていないため、それを持つ方の考えは想像するしかありません。しかし、上記のように絵が上手くなるのを最終目的とせず、自分の嗜好なり表現したいことを伝えたい方の絵からは、明らかに上手である以上のパワーを感じます。そしてそれは伝播し、たくさんの人の目に触れ、たくさんの人から好かれ記憶に残ると思います。

 

<その先の目的>

 上記のように絵が上手になり、人に何かを伝えた後も、次の目標を立てることができます。「収入を得る」「その界隈で有名になる」「昔あこがれていた方に直接会う」など、どんなことでも良いと思います。

 それに至るためのおおまかな筋道をたて、遠くない(時間はかかるかもしれませんが)次の次くらいの目的までを見据えて進んでいけば途中で心が折れず、また目的を失わずに進むことができる気がします。

 

 私にとっては、このような心構えが「上手になるため」に必要なことです。

 

<仕事でも同じ>

 絵を例としましたが、全てのことに言えます。仕事でも同じです。

 今やっている作業の次に待っている目的は何かを把握していないと、その作業は十分な質の生産物とはならず、お客様や上司に何度も取り下げられてしまうでしょう。次の目的を把握すれば、自然と生産物は次へ通じるものとなり、結果として質を上げることができます。

 

v1.0 / 20180810

「正しい」と「間違っている」

<「正しい」と「間違っている」の意味の範囲>

 「正しい」と「間違っている」の意味を辞書で調べると、「正しい」は人の価値観により判断される意味を持っています。

 しかしここでは、人の価値観を入れず手段に対してのみ用い、以下の定義の範囲でまとめます。範囲を狭めていると思いますが「人として正しい」というような高度な話はできません。

 日常で「正しい」「間違っている」は、手段か解答に対して使うことが多いと考えており、前者の手段についてのみをまとめました。といっても、至極当然のこととなりますが以下に定義します。

正しい手段/手段が正しい:目的に到達できる。

間違っている手段/手段が間違っている:目的に到達できない。

 

※とりまとめ中 v0.1

 

目的と手段

<「手段が目的になっている」とはどのような状態か>

 「手段が目的になっている」という文を見たことがあったり、人に言われた、または逆に人に言ったことがある方がいるかと思います。

 「手段が目的になっている」がどういうことなのか、抜け出したい場合はどうしたらよいかを考えてまとめました。

 

<目的と手段の定義>

 まず、目的と手段とは何かを明確にしようと思います、ここでは目的と手段を以下に定義します。

目的:達成すべき状況

手段:目的へ到達する行動

 例として「部屋に蚊がいるので除去したい」という状況を考えてみます。この例での目的と手段はザックリ言うと以下になります。

目的:蚊の除去

手段:蚊を手で叩き潰す

 他にも手段があるのではないかという考えもありますが、後日「手段の選択」という内容で書きたいと思いますので、ここでは一旦上記とします。

 

<「手段が目的に」変化する>

 しかし、前節の例で目的とした「蚊の除去」が達成されたとしても、日常生活では「それで終わり」ではありません。蚊の除去という目的を達成した先に、さらに別の目的があるはずです。例えば「寝たい」ということが考えられます。

 すると「寝たいが蚊がいるために気になって眠れないので蚊を除去したい」という状況に変わり、目的と手段は以下に変化します。

目的:寝る

手段:蚊の除去

 このように、初めの例では目的であった「蚊の除去」が手段となります。ある目的は、次の目的のための手段に変化するということです。さらには「翌日に会社へ出社するために寝たい」「仕事をするために会社へ行く」「給料をもらうために仕事をする」と考えていけば、次から次へと目的が手段に変化します。

 

<「手段が目的に」変化する>

 逆も同様です。蚊を手で叩き潰すには蚊を探す必要があります。すると目的と手段は以下に変化します。

目的:蚊を手で叩き潰す

手段:蚊を探す。

 手段であった「蚊を手で叩き潰す」が目的となります。ある手段はそれ以前の段階の目的に変化するということです。「蚊を探すためにあちらこちらを見る」「見るために顔または目を動かす」といった具合に、同じく次から次へと手段が目的に変化します。

 

<見るスケールを変えれば「目的が手段に」「手段が目的に」変化する>

 目的と手段というのは、人の動作のスケール(見るために顔または目を動かす)、日々の過ごし方のスケール(翌日に会社へ出社するために寝たい)、生きる糧を得るためのスケール(給料をもらうために仕事をする)などで、置き換わります。

 このように、ある段階では確かに目的と手段とは「目的がA」「手段がB」と区別されますが、段階やスケールを変えると「目的は手段に」「手段は目的に」変化します。

 

<「手段が目的となっている」とは次のような状態>

 さて、結局「手段が目的となっている」というのはどのような状況なのでしょうか。先から例としている「部屋に蚊がいるので除去したい」という状況で考えてみます。

 繰り返しになりますが、目的と手段は以下になります。

目的:蚊の除去

手段:蚊を手で叩き潰す

 ここで「手段が目的となっている」というのは、上記の状態から以下の目的と手段になってしまっていることを指します。

目的:自己の欲求が満たされるまで手段を行使する or 目標自体を設定していない

 (=次の目的につながらない)

手段:蚊を手で叩き潰す

 極端に言えば「部屋の蚊を全て潰しても飽き足らず、廊下、風呂場、玄関まで出向き蚊を叩き潰す。挙句の果てには家から出て草むらに出向き、延々と蚊を叩き潰す」といったことです。次の目的を失い、現時点の目的が変わってしまったために生産性の低い行為を繰り返し行い、次へと進まなくなった状態が「手段が目的となっている」だと考えています。

 

<「手段が目的となっている」から抜け出す>

 対処方法自体は目的の再設定を行えば良いだけです。つまり、次の目的へつながる現時点の目的、現在の手段で本来達成したかった目的を思い出して再設定します。それにより、単なる手段の繰り返しから抜け出すことができます。

 

<上記が難しいケース>

 前節の対処を実施するのがとても難しい場合があります。

 それは、自己の欲求が満たされるまで手段を行使をしていることや目標を失っていること認めたくないという心理が働いてしまう時です。この場合、その事実を認める、認めさせる必要がありますが、いくら客観的な事実や正論を提示しても、それ自体を否定・拒否するため、再設定を行えません。

 これは、説得の方法の域に入り込むので、後日まとめたら書きたいと思います。

 

v 1.1 / 20180809